2012.5.13.「サーバント・リーダーシップ」ウイリアム・モーア

要約

2012.5.13説教ウイリアム・モーア「サーバント・リーダーシップ」要約

聖書:ヨハネによる福音書13章1~15節。

 

【最後の晩餐と洗足】

主と弟子たちが特別の食事会、最後の晩餐と言われるものですが、ここで主は弟子たちにご自分の贖いの御業を教えたかったが弟子たちはまだ悟れる状態ではありませんでした。

弟子たちの必要を最後の時に与えることになった出来事が主の洗足の出来事です。

当時一つの習慣がありました。それは僕は外出から帰った主人の足を、サンダルを脱いでから洗うことが一般的でした。また客人が来ると僕が彼の足を洗い、主人と弟子たちとの間では一番低い弟子が主人の足を洗いました。さて主イエスと12弟子が最後の食卓の用意をしたとき誰も主の足を洗おうとはしませんでした。それはだれも自分は一番低い弟子とは考えたくなかったからです。

そこでイエスは弟子たちの足を洗われました。

 

ヨハネによる福音書13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、135 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

 

天地万物を創造された御手は優しく弟子たちの足を洗われ、仕えられました。主は彼らの文化ルールを破って弟子たちの足を洗われたので、ペテロは彼の足を洗おうとされた主に自分の足を洗わないように言いました。

 

【ペテロ】

ヨハネによる福音書136 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。

7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

 

9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。

10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。

 

【洗足は人間の罪を贖う象徴】

主イエスがなさった弟子たちへの洗足は人間の罪を贖う象徴でありました。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と。

 

主は恥ずべき十字架を私たちのために負って下さいました。そして弟子たちは互いにみずからを低くして仕えあうことを御自身が手本を示されたのです。

 

ヨハネによる福音書1312 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

 

【あなたがたの間ではそうであってはならない】

マタイによる福音書においても主は同様のことを言われました。

2025 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 

【サーバント・リーダーシップ】

サーバントとは僕、奴隷のことで、リーダーシップとは指導論理のことです。

主の教会ではリーダーは僕となることが求められる。リーダーは皆に仕えるように主がお手本を示されました。

 

西谷伝道所に運営委員会が組織されるに際してもこの主のサーバント・リーダーシップが求められます。完璧な委員はいませんし、特別の賜物は必要ありません。必要な賜物は主イエスを主と受入れ、愛と一致のために互いに仕えるとき与えられます。(おわり)

 

 

2012年05月15日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書

「神に導かれて」ウイリアム・モーア

聖書:使徒言行録8章26~40

要約:復活の主は聖霊降臨の約束を弟子たちに賜った。そして聖霊降臨のあるまではエルサレムにとどまって祈りまつようにと。

ペンテコステの日に約束の聖霊降臨をうけた弟子たちは大胆に力強く福音宣教に立ち上がったので教会は大きく成長した。しかしそれとともにユダヤ人の迫害も大きくなったのでエルサレムの信者たちは地方に散って行った。そこでも福音を述べ伝えたので信じる者が多く起こされた。

 

ここにフィリポという弟子、彼はエルサレム教会の執事であったが、使徒言行録8章4~13に書かれているようにまずサマリヤに下って行った。

 


2012年05月05日 | カテゴリー: 使徒言行録

2012年4月15日「子どものようにさせられて」片桐耕治神学生説教奉仕

2012年4月15日片桐耕治神学生説教奉仕;

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マタイによる福音書17章24 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。
25 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
26 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
18章1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。


2012年04月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

2012.3.4.礼拝(続き)

2012.3.4.礼拝(続き)


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2012年03月06日

2012.3.4礼拝風景

今年は灰の水曜日が2月22日で、この日から4月7日(土)までが受難節レントになります。

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2012年03月05日 | カテゴリー: マルコによる福音書

献堂式2011.12.11

献堂式2011.12.11

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2011年12月11日

内田純一兄加入式2011.10.23

内田純一兄加入式2011.10.23

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2011年10月23日

「光の中を歩く」伊丹教会長老 城下忠司 2011.9.25.

聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・15節~10

 

◆神は光

        5:わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。

6:わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。

7:しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

8:自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

9:自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

10:罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

 

【はじめに:光と闇について理解する】

聖書は、私たちに、多くの箇所で比喩を使って、分かりやすく、神さまのみ心を伝えてくれます。今日のみ言葉で語られる光と闇という言葉の意味も良く分かる言葉となっていると思います。ヨハネは光と闇とを比較してその深い、内側に隠された意味を教えてくれます。

初めに、光と闇について、私たちの感覚で比較して見てみましょう。今の時代、都市に住む人たちは、真っ暗闇というものを経験することはできません。田舎でも今は光の無い場所は中々見当たりません。人気の無い山の奥に入り込まなくては星の観測は出来ない時代です。真っ暗闇の不安、恐ろしさを経験することも出来ないと思います。

 

【かつて私の経験したこと】

かつて私の経験したことですが、弟と二人で旅行から田舎に帰る途中のことです。鉄道も無く、バスの回数も少ない時代でした。そのバスの終点から家までは30キロあまりありましたが、二人とも高校生でしたので、歩いて帰ることになりました。どんなに暗くても星の光さえあれば、なんとか進んでいけるものです。しかし、その日はあいにく曇り空で、日暮れてからは全く何も見えなくなってしまいました。文字どおり真っ暗闇となり、道は狭くそのうえ、片側は小さな川が音も無く流れているという環境でした。一旦歩き出した二人です。這いつくばるようにしてほんとうに手探り状態で歩き続けました。30分程歩いた時でしょうか、前方にかすかな明かりが見え、近づいてみると農家の灯りであることが分った時のその安堵感、その喜びは忘れられません。幸い、その農家に泊めてもらって翌朝のバスに乗って帰ったという経験を思い出します。闇についての恐ろしさの経験でした。

2011年09月25日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , 新約聖書